03雑記帳<復刻版>: 2008年1月アーカイブ

 

時をさかのぼること2日、早い話がおとといの9月29日。
午前12時すぎ。

私はあたらしい命を預かることになった。二人の娘たちが深い眠りの中にいたころの事。



周りの人たちからは『3人目も女の子だよきっと。』といわれ続けていたので、私も覚悟はしていたのだが出てきた子供には周囲の予想に反して、私の小指の先ほどの小さなおちんちんがくっついていた。

世に言う『男の子』を神様から預かることになったのだ。

 

 もう子供たちも寝静まった午後10時。まるでおなかの中にスイカが丸ごと入っているような家内が急に、『陣痛が始まったみたい。』と寝そべってテレビの洋画を見ていた私に声をかけてきた。

家内はこれまでの経験から 『陣痛の間隔からして出産は明日の朝ごろになる。』と経験者ならではの余裕の表情で私に解説をしてくれた。

私はその筋道の通った説明に、『なるほど。そういうもんなのか。』と、いちいちうなずくしかない。とりあえずベッドの空き状況もあるので、掛かりつけの中央病院に電話を入れることにした。

 

  • 家内 『婦人科でお世話になっている○○ですが、陣痛の間隔が短くなってきたようなので連絡してみ   たのですが。』
  • 看護婦さん 『今現在何分おきで陣痛が来ていますか。』
  • 家内 『え~と、10分間隔に近くなってきてます。』
  • 看護婦さん 『○○さん、初産ですか、経産婦ですか。』
  • 家内 『3人目になります。』
  • 看護婦さん 『○○さん、3人目だと陣痛が始まっててからすぐに出てくる場合がありますので、とにかく今すぐ来てください
  • 家内『わかりました。今からすぐ出ますので5分くらいで着くと思います。』

とまあこんなやり取りの後、あらかじめ用意しておいた入院用の荷物をかかえ、熟睡中の娘たちをそぉ~っとのこしたまま車で金町中央病院へと急ぐことになった。

病院に到着するなりさっそく診察が始まるということなので私は荷物を残して一時帰宅することにした。

家に戻って2時間ほどたった深夜0時過ぎ。
私の携帯が時間もわきまえずに突然鳴り響いた。

あわてて電話を手にすると小さな声で『はい。○○です。』   
かけてきたのは中央病院の看護婦さんである。『○○さんですか。おめでとうございます~。生まれましたよ~。』    私は『ありがとうございます。』といいながらも頭の中では情報が錯綜し、軽い混乱状態に陥っていた。

つい二時間ほど前に病院に送り、直前まで『この感じなら生まれてくるのは明日の朝ごろね。』と解説を受けすっかり洗脳されていた私は、なかなか状況を理解することができなかったのだ。

実際には一瞬の間だったのだが、ようやく頭の中で流れを組み立てなおしたとき、電話口に家内が出て『さっさん。(家内は私のことを “さっさん” と呼ぶ)うまれたよ~。オチンチンがついてるよ~。』 と、衝撃の発表をうけた。

オチンチン?おちんちん。男の子か?・・・。

とまあ、そんなこんなで私たち家族は、29日の深夜0時過ぎに、元気な男の子を神様から預かることになったのだ。そういえば名前どうしようかな。女の子の名前しか考えてなかったなあ。

 

 

本日の日付はというと、なんと8月の20日。

夏真っ盛りのはずなのだが、私の住む葛飾柴又はまるで梅雨の時期のように連日の雨模様である。
いまや一家に3台の時代に入ったクーラーを備えていない我が家にとっては大変すごしやすい気候ではある。が、子供たちにとってはなんとも憂鬱な毎日だろうと思う。

やはり夏は暑いに限るそれにしてもお盆の時期に毛布を引っ張り出してくることになるとは・・・思ってもみなかった。

気のせいか、前回の書き込みをしてからずいぶんと時間がたっているように感じる。
前回が5月ということは、どうも気のせいではないようだ。柴又はとくに時間の流れが速いのかもしれない。    

なんとなく忙しない毎日が続き、気持ち良く風に吹かれてビール(見栄を張って書いたが本当は発泡酒なのだ。)を飲んでいた子供の日から、いつのまにか夏真っ盛りのはずの8月中旬にまでなっている。

まさに『あっ!』と、言う間だった。   
この『あっ』と言う間のあいだにも、いろいろな人に出会う機会を与えられ、さまざまな依頼の仕事にかかわる機会を与えられたことにとても感謝している。

どう考えても接点のないはずの方々からこの素人HPを通して大小様々な家具・収納・ツールなどの製作依頼や本業(じつは大工職人なのだ。)に関する仕事の依頼を頂き、それぞれのやり取りの中から人となりを感じることができた。

人のことを言える立場でないことは良くわかっているが、本当に世の中にはいろんな人がいるもんだなあとつくづく感じている。



さて前回、工房の移転計画について軽く触れておいたのだが、あれから少しばかり計画変更を余儀なくされるような事態が発覚し、現在も葛飾柴又にとどまっている状態である。

5月も終わりに近づいたころだったろうか、家内がずいぶんと体のだるさを訴え『腰が重い』『背中が張る』等々、いつもにもまして不調を訴える。

私は連日のようにマッサージ師への変身を余儀なくされ、足の裏から頭のてっぺんまで至れり尽くせりのマッサージ三昧である。

ところが、『ゴットハンド』といわれた私のマッサージをもってしてもなかなか症状が改善しない。
改善しないどころか日を増すごとにコリやハリはひどくなってゆくのだ。徐々にムカムカ感まで訴えるようなり、これはただ事ではないということになり数日後病院へ行くことになった。

やはりただごとではなかった。なんと!神様は私たちの家族にもうひとつの新しい命を加えることを決定したらしいのだ。   原因がわかりホッとひと安心・・・。   

その後、順調とはいえないまでも何とか母子ともに元気にすごしている。

一月半ほど前からはお医者様から『絶対安静』というありがたいお言葉をいただき、家内は家でずーっと寝ていなくてはならなくなってしまい、毎日朝から晩までトイレと食事とお風呂以外は布団の上で横になっている。

私はというと、『絶対安静』を言い渡されたその日から、それはそれはまめに動き回り仕事をこなしながらの主夫業を毎日こなす日々を送っている。 『聞くも涙語るも涙』と言いたいところだが、私本人はそれほど苦には思っておらず、まあ長い人生の中で見ればほんの一瞬の出来事くらいでしかないと思っている。

この一月半ほどの間で私の料理の腕はかなり上がったのではないかと思う。中華料理から和食、プロバンス風サラダまでこなし柴又の料理の鉄人と呼ばれているような気がする。(????)

造りだされた傑作料理は数知れないのだが、いちどつくった料理を二度とつくることができないのが目下のところの課題なのである。    料理中はほぼ87パーセントが思いつきによるレシピとなるために、後で思い浮かべてもいったい何を入れてどんな味付けにしたのかがどうしても思い出せない。

結局リクエストを受け思い出しながらつくるのだが出来上がってみるとリクエストのあった先週の料理とはまた違った料理ができてしまうのである。

仕方がないので先週は『南仏風』と銘打っていた物を『広東風』にきりかえてその場をしのいでいる。『南仏風』から『広東風』への切り替えということはかなり大掛かりな構造改革を、意に反して行なったことになる。    

当然のことであるがその味、出来上がりには『痛みをともなう』場合もあるということは理解していただきたい・・・・たまにはね。

  

この『絶対安静』の期間中たくさんの方々から助けていただき応援していただき、とても感謝している。近くの自動車メーカーに勤めている家内の友人は、仕事中『銀行いってきまーす。』といってはうちに来て家内の話し相手をしてくれていたらしい。

ことあるごとに夕食のおかずを差し入れしていただき(これがまたおいしいのだ。)本当に感謝である。私としては少々ライバル心を抱いているのだ。

また自称を『つばめ』だか『ひばり』だかわけのわからない源氏名をつかう友人や、いつも眉間に3本の縦じわをよせながら娘の送り迎えから韓国料理まで世話を焼いてくれたカズママ。

そのほかあげればきりがないほど多くの人たちに支えられている。せまいつながりかもしれないが、人間の温かな気持ちに触れさせていただき改めて感謝したいと思う。

そんなこんなで『工房移転計画』は現在、無期限延期という措置をとらせていただいている。まずは3人目の子供が無事に飛び出してくるまでは気を抜かず主夫業に専念したいと思う。もちろん仕事をしながら。

 

昨日も今日もとてもよい天気。
昨日は午前中だけ所用をこなし午後からは休み。

今日5月5日は子供の日という事で私の住む柴又地方は祝日となっている。
よって休み。   
朝から長女の保育園時代の友達『柊人くん』一家と近所の三郷公園にお弁当を持って出かける事になった。

三郷公園はなかなか気に入っている。なんといっても公園の駐車場が休日でも無料なのだ。
水路をはさんでむこう側には、かの有名な水元公園があるのだが、休日になると駐車場が有料になる。

朝炊き立てのご飯で握ったおにぎりと、有り合せのおかずに麦茶を水筒一杯に持って出発。車でおよそ10分もすると、そこは埼玉県三郷公園となる。さすがに連休最終日ということもあってか、人は結構出てにぎわっている。

木陰に適当なスペースを確保し荷物を下ろして子供の日の休日を満喫する事になった。

 




子供の適応能力の高さというか,ものおぼえの速さというのには感心させられる。

公園に着くや否や、最近買ってもらって間もない『ローラーブレード』なる小道具を取り出すと、現在小学校一年生の柊人くんと我が家の愛子さんはそれぞれの妹を後ろに従えて、公園のアスファルト敷きの道路部分へと小走りにいってしまった。  

私も近くまで行き様子を見ていたのだが、柊人くんはローラーブレードを手に入れたのがごく最近のため立って歩く事さえもまだ容易でないという様子。そのまわりを同じくらいの歳の子供達がスイスイとうわさのローラーブレードで通り抜けてゆく 。

先ほどまで元気一杯の柊人くんが、みるみるへこんでゆくのが遠目からもよくわかる。   

駄目を押すかのように、愛子さんが颯爽に彼の横を通りぬけると我慢の限界を超えたのだろうか、その場にへなへなと座りこんでしまったのだ。

うなだれる後頭部、力なく折れ曲がった両の脚、今にも泣き出しそうな瞳・・・。
そう、いままさに彼はローラブレード初心者の自分自身にへこみきっているのだ。へなへなへな・・・と。

見かねてパパが登場するが、取り付く島もなく駄々をこねるばかりである。

それから20分ほどすねていただろうか、ひょんな事から転機はやってきた。
きっかけは、この季節桜の木によくつくあの毛虫によってもたらされたのだった。

しばらくすねていた柊人くん。力無く立ちあがりようやくレッスン再開の決心をしたそのとき、目の前を一匹の毛虫がへこへこと通り過ぎようとしていた。

すると突如柊人くんが奇声をあげ、あの潤んだ瞳に輝きを取り戻し「愛子!愛子!けむし~!」と、大声で愛子をよんでいる.

その様子に近くを通りぬけるローラーブレード少年・少女達が 何事かと彼の目線の先にある小さな生き物に目をくれる。柊人くんの表情が生き生きとしている。誰かが背中にある電池をパナソニックのアルカリ乾電池に取り替えたのではないかと 考えてしまうほどの急変である。

私は知っているのだが、じつを云うと柊人くんは昆虫が大好きなのだ。
しかも戦いごっこと同じくらい・・・。   

それからの柊人くんは見違えるようにローラーブレードのレッスンに励み、みるみる上達して、私が木陰で缶ビール片手に柊人パパと世間話をしているうちに、いつのまにかスケーティングポーズで移動できるようになっていた 。

まだ滑っているのか歩いているのかが判別しにくい点はあるが、立ち上がる事さえままならなかった午前中に比べれば大変な進歩・上達である。

子供たちの興味を示す範囲の広さ、スポンジのような吸収力、学習能力の無限な可能性には本当に驚かされる事が多い 。

周りにいる大人達は心して接する必要がある。
子供たちは私達を見て、私達に接してあらゆる物を吸収してゆくのだと思う 。

価値観・良心・ずるさ・愛情すべてを感じ取っている。
知らず知らずのうちに子供たちの可能性の一端を担っていることになるのだと思う。

ビール片手に顔を赤らめている私は、風に吹かれながらそんなことを感じた。

現在私は工房を立ち上げるべく群馬県下仁田町近辺に場所を絞りつつ物件探しの最中である。
公園での記述が長くなってしまったので詳しくは次回書くことにしよう。

どなたか『ここ空いてるから使っていいよ~』なんていってくださる方はいないもんかな・・・。

 

 

 

毎年このくらいの時期になると少年時代を思い出す事が多い。   

私は最もわんぱく盛りの時代を東北の小さな町で過ごしている。
まわりを山にかこまれた典型的な盆地だった。 近くには国鉄のローカル線が通っていて、友達とよく線路に耳を当てては遠くから近づいてくるであろう汽車の音を当てっこしたりしていた。

遮断機もないその踏切を越えるとすぐ土手道に上がる小さな坂道があり、坂道を登りきると目の前には当時の記憶ではとても大きな川が流れていた。

米代川というその川もまた私達子供にとっては格好の遊び場となっていた。

すぐそばには大きな赤い橋が架かり尾去沢地区と私のすむ花輪地区を結んでいた。赤い橋の下は大小様々な丸石があり夏はよく水遊びをしたり、魚取りをした。ウグイなどは今でいう10キロの米袋一杯になるほど取れたものだ。

一度だけ15・6年ぶりくらいに町を訪れた事がある。

私の記憶の中で大きな川だった米代川も、長く大きな赤い橋も、土手道に上がる坂道も、そばにある営林署の広場も何もかもが昔のまま残っていた。

ただあれほど記憶のなかでは大きな存在だったはずの川や橋、営林署の広場が二廻りほど小さくなっていた。いつのまに小さくなったのだろう。

 

よく家族で近くの山に山菜取りや、きのこ・なめこ・ひめたけなどを取りに行ったような記憶がある。
米代川の川原で近所の子供達となべっこもよくやった。

私はぜんまいや蕨のおひたしがとても好きでよく食べたものである。
なんともいえない香りと歯ごたえが忘れられない。
もう何十年とつみたての山菜を口にしていないせいか、時々夢にまで出てくる事がある。

食べ物の記憶をたどるとつぎからつぎと出てきてしまう。
あの頃は美味しいとは思っていなかったふきのとうやつくしんぼう、田んぼで袋一杯に捕まえてきてはおかあちゃんに作ってもらったイナゴの佃煮。

栗拾いのあとの栗ごはん。山でよくおやつのように食べた木の実・あけび・・・。いやになるほど食べた今では高級魚のはたはたとぶりっ子。いわずとしれたきりたんぽ、甘酒、つきたてのもち・・・。

生活は決して楽ではなかったはずの時代だが、今思うと食生活は現代よりはるかに豊かだったのではないかと思う。あれほどの御馳走は今となっては、お金を出してもなかなかお目にかかることも難しい。

瞳をキラキラと輝かせて走り回っていた少年時代は30年近く経ったいまでも 全く色あせる事はない。
それどころかますますその色を鮮やかにしているようにさえ感じる。

少年時代への憧れは年を重ねるごとにつよくなり、再び戻ってみたいという欲望に背中をつつかれ手を引っ張られている。



忘れられない匂いというのがある。
私のすんでいた町では3月も終わりの頃になってくると何処からともなく春の匂いが漂ってくる。

東京でその話をしてもあまり信用してくれないのだが、春の匂いは本当にあるのだ。
なんともいえない土のような匂い、あたりはちょうど雪解けが始まりそこら中でしずくの垂れる音がしている。沢沿いには日当たりのよいところだけ土の色が見え、ふきのとうが顔を出し、猫柳が芽吹いている季節。

東京でもたま~に風に運ばれて春の匂いがやってくることがあるのをしっているだろうか。

 

 このところ毎日目一杯の現場作業が続き、少し疲れた。

前回の日誌記入からも大分日が経ってしまい、もはや断念も間近ではと噂を立てられてはかなわないので、ここらで今だ健在であることを世間に広く知ってもらうために、キーボードの前に座り画面を睨んでいる。

今日は日曜日、久し振りに家でゆっくりする。はずだったのだが・・・。

朝から子供達に追いたてられ、卓球大会を午前中にこなし、そのあと冷たい水を使って洗車に汗を流し、昼食。   午後からのまくら投げ大会はデザートのアイスと交換条件で、夜の大会開始に延期してもらいしばし休憩を頂いた。

今夜の我が家のバトルを想像しながら作戦を練っている最中である。

我が家にはまくら投げ大会に使用できる公認まくらが九つほどある。
内訳は、二つが娘たちのアンパンマンとキティーちゃんのまくらで、サイズはS。
私と家内のまくらがLサイズ。その他、お客さん用のまくらやクッション、籐の回転椅子に敷いてあるクッションなどである。

中でも籐の椅子に敷いてあるクッションの威力は破壊力抜群で、私でさえもこれの一撃を食らうと一瞬目の前が真っ白になってしまうほどである。

大きさもさる事ながらこの重量感が大きな破壊力を生んでいると私は見る。    
まだ4才の下の娘がこのクッションの攻撃にさらされるのだからたまったものではない。
あっという間に80センチは吹き飛び、そこにある柱や壁に激突して転倒。ほどなくキッチンにいる家内のところに涙の抗議をすることになる。   

我が家の間取りの関係上80センチも吹き飛べば、壁や柱などの障害物に遭遇するが広い部屋での戦いとなれば、ゆうに3メートルは飛んでいるのではないかと思う。(少し大げさだったかもしれない。)

戦い方自体はいたってシンプルである。


二人の娘VS私という構図が最も一般的で、ときどきこれに家内が乱入することがある。
家内の攻撃は非常に強力で私のパワーと技をもってしても防御に回らざるを得ないこともしばしばで、日ごろの不満でもぶつけているのではないかと考えてしまう。

私としては家内の参入をあまり快くは思っていないのが正直な気持だ。

今のところはまくら投げ大会では私が一歩も二歩もリードしているが、いつこの立場が逆転するのか先のことは分からない。家内が本格参入を表明すれば事態は急転するかもしれないのだ。

3対1では私もかなり苦しい。そんなこんなの諸事情があるのだが、まずは今日の勝利のために作戦に余念のない昼下がりの父であった。

まだまだまけやせん・・・。

 

 

 上の娘はこの3月で保育園を卒園することになる。


今日その保育園で全てが母親達手作りというお楽しみ会が質素だけれども、とてもにぎやかに開催された。
前日までのお母さんたちの心配をよそに、それはそれは楽しく、お腹がよじれるくらい笑える劇やパフォーマンスだったそうだ。

私はどうしても仕事が抜けられず、この一大イベントを見ることができなかったのだ。
おまけに遅くまで掛かってしまったので、そのあとの宴会にも参加できなかった。
ものすごく残念だ。

当初計画が持ち上がったころは様々な問題が発生し、なかなか計画どうりにいかず大変だっただろうと思う。

20名ものお母さんたちが(一部のお父さんたちの協力も忘れてはならない。)皆で何かをやろうと言うのだからうまくかみ合わない事もしばしばおきる。
まして保育園ということは全員が働くお母さんということになる。

仕事をしながらこの一大イベントを計画・準備していたことになる。

なかには『私そういうみんなで何かをやるっていうのあまり好きじゃありませんので』と、参加を拒否するお母さんもいたらしい。もちろん皆それぞれに事情があることは十分承知していた。
あるお母さんは家庭の事情もあり参加は無理だろうと誰もがおもっていた。

そんなこんなで当日になるまでどうなる事かと気を揉んでいたが、ふたをあけてみると皆ビックリである。保育園の先生達までが驚く、【働くお母さん全員参加】によるお楽しみ会となった・・・らしい。

普段は声のかけずらいちょっと変わったお母さんも、元ヤンキーというヤンママさんも当日になっての参加決定となった。役どころはそれぞれ大役ではなかったらしいが手作り衣装を身にまとい大変身!やんやの喝采を浴び、きっといい気持だっただろうなあと想像する。

みんながそれぞれの充実感を味わい、暖かな気持を通わせ、見ていたすべての人たちには忘れかけていた熱い想いと、こみ上げる気持を残すことができたと思う。

『園長先生は笑い過ぎでお腹かがよじれてしまった』ともっぱらの噂も流れている。大成功を収めたお楽しみ会ならびに劇団『働くお母さんズ+2名の働くお父さんズ』には早くも出演の依頼が 殺到している。現在1件だが。

そのときはこの私も是非オーディションを受けてみようかと思う。

それから準備に携わっていた何名かのお母さんたちのかくれた苦労にお疲れさんといいたい。

追伸
劇中に両津かん子なる人物がいたらしい。福島なまりの田舎者のようだが一体誰だったんだろう。

 

 木造の3階建てというのは、これでもかというほど金物を使用して建てられている。
いままで二階建てしかやってこなかったせいか、今回はじめての3階建ての現場で少々困惑している。

明治の初期にも木造で3階建てというのは建てられていたが、こんなに金物だらけではなかったことだろう。
東京文京区にいまでも古い3階建ての建物があるが、しっかりとしている。


今のように外回りをベニヤで貼りこんでいたりはしないし、金物でがんじがらめに固めたりもしていない。まして外壁にサイディングを張ったり内装に耐火ボードを貼るなんて事もしていない。木が持っているそれぞれの癖をうまく組み合わせる事で全体のバランスを保たせているのだと思う 。


昔の大工はなんと賢いのだろうといつも感心させられる。
それぞれ微妙に寸法の違う材をほんの少し面倒を見ながらいかにも同じ寸法の材が並んでいるかのように組み合わせてしまう。

今の時代だったら『なんだこれは!分が違うじゃねぇ~か』と怒鳴られそうな材でも使いこなしてしまう。

時代が違うといえばそれまでなのだが、こんな寸法通りできちっとしていて、正確無比な現在の建築術は私にとってはあまり魅力は感じられない。

木を生きている材として使ってあげられるような仕事をしたいといつも思うが、時間と予算に追われる現在の一般建築ではなかなかそうはいかないのが現実でもある。

もちろん今でも木を生かした仕事をしている大工はたくさんいると思うし、そういう仕事をしたいと思っている大工はたくさんいると思う。

多くの職人はやはり喜んでもらえるようないい仕事がしたい。
そう思っているに違いない。・・・と思いたい。

家具製作は私にとって数少ない妥協しないで仕事ができる分野になる。
多くの失敗もあり、お客様に迷惑をかけたこともある。木を扱うものとしてはまだまだ未熟ではあるがシンプルできちんとしたものを造りたい。

 

年が明けてからはあまり忙しくはない日が続いていたが、先週から木造3階建ての仕事が入り少し忙しなくなった。   天気にも恵まれ無事建て方も終わり今日は屋根の垂木・野地板貼り・金物取付け等々高いところでの仕事が続く。

久し振りなので脚も腰も痛い・・・。情けない。

帰りしな、ラジオで貴乃花の引退のニュースを聞きなんとも寂しい気持ちがした。
私と同じような気持ちを持った人は多いのではないだろうか。

私は貴乃花がとても好きだった。何か奥にぐっと秘めた仕草が、受け答えが、なんとも昔あこがれた何かを思い起こさせるような気がする。

横綱であるために押し殺さなければならなかった思いがたくさんあったんだろうなあ~。
ほんとは大な声で言いたかった事もあるんだろうな。

横綱であるが為に許されない力の衰え、それに気づいてはいたと思うが認めることに苦しんだろうと思う。私などにはとても想像すらできないような重圧が、四方八方から押し寄せていたのだろう。

あの鬼のような形相で優勝した一番をやはり思い出してしまう。忘れられない表情・思いの全てがあの表情をつくったんだろうな。と思う。

道を極めたひとだけが持っている美しさのようなものを感じる。

 

本日午後11時30分無事洗濯機(日立・静御前)を落札する。

 

柴又では今日は成人の日で休日です。
午前中少々仕事をして午後からは私も休ませていただきました。

最近、家の洗濯機の調子がどうも芳しくない。
私が一人で暮らしているころに近所のデンキランドで展示品を購入してから
もう十二年ほど経っています。

ながいあいだよく頑張ってくれましたがそろそろ寿命かもしれません。   
そこで二代目を手に入れようという事で某ヤフーオークションにて出物を物色しておりますと、ちょうど条件の合う洗濯機を発見!
  
終了時間は本日午後九時二九分。
価格の方もそれほど動いている様子はなく『これはいける!!』と、意気込んで刻々と迫る終了時間を睨みながらオークションに参加しておりました。

終了が近づいてくると何人かが参加してきまして、少しづつ価格の方も競りあがっていきます。

そして終了二分前の段階で、最後と思われる入札を行い残り時間の方も10カウントを残すのみとなり程なく終了の時間。

『無事落札』と思った瞬間です。目の前の画面の中にある残り時間の表示が、急に赤文字で『詳細な残り時間10分』と変わってしまったのです。   

はじめは何が起こったのが理解できず、あっけにとられていましたが『これは、出品者が残り時間を操作できるようになっているんだ』と悟り、あらためて画面に目を向けますとその時点ではまだ私の金額が最高入札と表示されており、残り時間は二度目の五分台を表示していました。

直後、私よりも高い金額の入札が入り、負けじと私もその上の金額を入札してそのまま残り時間か〇秒に・・・。


ところがまたしても画面の残り時間が『詳細な残り時間10分』と変わってしまったのです。さすがに私も落札意欲がうすれてしまいしばらく様子を見ておりました。

その後同じような動きが計五回繰り返され、その都度金額の方も少しづつ上がっていき、もちろん私が落札する事はなく、なんともいえないくやしさ残りました。

本当ならばあの洗濯機を二台も落札したはずなのですが・・・。
 

 

少し遅いですが、おめでとうございます。
どなたがこの気まぐれ日誌を最初に見てくれるんでしょうか。なんとなく身内の人間になりそうな気がします。

もう1年近くもHPをほったらかしにしていたもので、どんなふうにして作っていったのか自分でもすっかり忘れていました。またはじめから虎の巻をめくりながら正月のあいだず~っとパソコンの前にいたような気がします。

我が家の二人の娘たちは、昨年の暮からたてつづけに、まず下の真子がみずぼうそうにかかってクリスマスを迎え、ようやく丸いカサブタが小さくなってきたころ、今度は上の愛子がみずぼうそうにかかってしまいそのまま年越し。

合間を縫うようにして家内が風邪でダウン。最後はこれでもかとばかりに下の真子がインフルエンザで高熱をだしてダウン。   
そして正月休は終了となりました。

私は、と言えば・・ご想像のとおりいたって元気なのです。
このすこぶる丈夫なからだを設計製作してくれた両親と神様に感謝するばかりです。

そんなこんなしながらも、家族四人ともなんとか新しい年を迎えられたみたいです。
不定期な雑記になるのは目に見えていますが、また思い出したり、間違えてたどり着いてしまったら是非のぞいていってください。

それでは記念すべき第1回は終了です。ふ~。
 

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