2009.04.11(土)
自宅前 薪小屋測候所寒暖計 8.0℃
日に日に朝の観測気温が上がってきております。けさは8℃を観測、すっかりあたたかくなってきた南牧村です。
おはようございます。本日はあっという間の「さたでぇ~!」ということで、ここ南牧村では土曜日を迎えているようです。連日お伝えしていますが、さまざまな草木には春の花が咲き乱れ、まさに春爛漫!の山間地域。
この花の時期が終わるといよいよ葉芽が広がって山のいたるところで新緑が眩しくかがやく季節を迎えることになります。梅雨の時期までの一年で一番気持ちのよい季節なのです。
かたじ屋裏山では野生種のタラの木が、その先端部分に春の味覚"タラの芽(たらっぺ)"がふくらんできているのをけさ発見です。そんなにたくさん食べるようなものでもありませんので、今年も天ぷらにして塩をふって2~3個ほど頂くつもりでいます。
こと宗教感や信仰心ということでいわせていただけば、日本人というのは気が多いといいますか、多神仰といいますか、雑信仰といいますか時としてあきれてしまうようなことがあるものです。
家の中には神棚を設け「あまてらすの・・・・」と漢字で書き込まれたお札のようなものを貼り付け、榊にお神酒。かと思えば本願寺派御西・御東と呼ばれている仏教・浄土真宗寺院の檀家さんが、さまざまな宗派のあらゆるしきたり、教義をごちゃ混ぜに理解して、あーでもない・こーでもないと進言してくることしばしば。
詳しいことはよくわからない私ですが、どうやら浄土真宗というのは亡くなってから即成仏という考え方があるのだそうで、一般的によく聞く三途の川だとか、四十九日の旅をするという考え方はないのだそうです。
亡骸に伴わせる「守り刀」も「六文銭」と呼ばれている金銭の供え物も本来の概念から言えば不必要とされているのだそうです。(私も今回はじめて知りました。)
まあ、お寺さんといえばみな同じだという感覚なのだろうとは思いますが、あまりにも雑多な知識ばかりが先行して、葬儀を出している家族を迷わせるということもあるのだろうと感じます。
どのような送り出し方をするのも、死に対してどのような整理の付け方をするかももっとも近しい家族の気持ちが最優先される事柄ですから、決まりごとなどないと思います。
四方八方から寄せられる進言は親切心から来ることだということは理解できると思いますが、あくまでも本人たちの気持ちを大事にするべきだと思います。
しきたりや、作法、決まりごとというのは、突き詰めればいつの世にか誰かが言い始めて事始したことなのですから、自分たちにあった方法があるのであればどんどんアレンジしても構わないものだと私は考えています。とらわれる必要などないのです。
七の倍数である四十九日間旅をするなんている発想、面白いことを考えるものです。 ちなみに、私かたじ屋には難しい教義も厳しき戒律もありません。ただ私の両親から分けてもらった良心に基づいて、私の神様にすべてをゆだねて生きてゆけたらよいなぁと思っています。
自宅前 薪小屋測候所寒暖計 8.0℃
日に日に朝の観測気温が上がってきております。けさは8℃を観測、すっかりあたたかくなってきた南牧村です。
おはようございます。本日はあっという間の「さたでぇ~!」ということで、ここ南牧村では土曜日を迎えているようです。連日お伝えしていますが、さまざまな草木には春の花が咲き乱れ、まさに春爛漫!の山間地域。
この花の時期が終わるといよいよ葉芽が広がって山のいたるところで新緑が眩しくかがやく季節を迎えることになります。梅雨の時期までの一年で一番気持ちのよい季節なのです。
かたじ屋裏山では野生種のタラの木が、その先端部分に春の味覚"タラの芽(たらっぺ)"がふくらんできているのをけさ発見です。そんなにたくさん食べるようなものでもありませんので、今年も天ぷらにして塩をふって2~3個ほど頂くつもりでいます。
こと宗教感や信仰心ということでいわせていただけば、日本人というのは気が多いといいますか、多神仰といいますか、雑信仰といいますか時としてあきれてしまうようなことがあるものです。
家の中には神棚を設け「あまてらすの・・・・」と漢字で書き込まれたお札のようなものを貼り付け、榊にお神酒。かと思えば本願寺派御西・御東と呼ばれている仏教・浄土真宗寺院の檀家さんが、さまざまな宗派のあらゆるしきたり、教義をごちゃ混ぜに理解して、あーでもない・こーでもないと進言してくることしばしば。
詳しいことはよくわからない私ですが、どうやら浄土真宗というのは亡くなってから即成仏という考え方があるのだそうで、一般的によく聞く三途の川だとか、四十九日の旅をするという考え方はないのだそうです。
亡骸に伴わせる「守り刀」も「六文銭」と呼ばれている金銭の供え物も本来の概念から言えば不必要とされているのだそうです。(私も今回はじめて知りました。)
まあ、お寺さんといえばみな同じだという感覚なのだろうとは思いますが、あまりにも雑多な知識ばかりが先行して、葬儀を出している家族を迷わせるということもあるのだろうと感じます。
どのような送り出し方をするのも、死に対してどのような整理の付け方をするかももっとも近しい家族の気持ちが最優先される事柄ですから、決まりごとなどないと思います。
四方八方から寄せられる進言は親切心から来ることだということは理解できると思いますが、あくまでも本人たちの気持ちを大事にするべきだと思います。
しきたりや、作法、決まりごとというのは、突き詰めればいつの世にか誰かが言い始めて事始したことなのですから、自分たちにあった方法があるのであればどんどんアレンジしても構わないものだと私は考えています。とらわれる必要などないのです。
七の倍数である四十九日間旅をするなんている発想、面白いことを考えるものです。 ちなみに、私かたじ屋には難しい教義も厳しき戒律もありません。ただ私の両親から分けてもらった良心に基づいて、私の神様にすべてをゆだねて生きてゆけたらよいなぁと思っています。

やまねこどの
「西洋の宗教は偶像崇拝を厳しく禁じているため・・」というのは、そとから眺めている立場の方が感じることだろうと思います。私の父もそうですがその人生そのものを賭けて一宗教と向き合っている人にとってはそのような認識は非常に薄いと感じています。
同感です。どらごんさんの思慮、分析力に敬意を表します。
ただ「西洋の宗教は偶像崇拝を厳しく禁じているため・・」とありますがキリストの十字架像とかマリア像は偶像に含まれないのですかね。たしかにイスラム教は偶像崇拝厳禁というのは知っていましたが。仏教をはじめとした宗教知識が薄く申し訳ありません。 合掌 やまねこ 拝
どらごんふりゃいどの
まずはどらごんふりゃいどのの深い思慮・造詣に敬意を表します。
たとえば私などは『よくわかりませんが・・・』と言葉を濁して逃げてしまいますが、ものの考え方の真意というのはなかなか理解することが難しく、往々にして浮かび上がってきたもの、見聞きした興味深いエピソードなどを見て判断してしまいがちです。なにが正しくて、ここからはそうではないという判断は人それぞれのなかにあるんでしょうね。
やまねこどの
話はそれますがお笑い芸人?と呼ばれている人たち、私にはこれっぽっちも面白く感じません。とても芸を身につけたとは思えない人たちがなぜに芸人と自称しているのか理解できません。私のダジャレのほうがよほどレベルが高いとさえ感じるほどです。
日本人は古来から『万物に神が宿る』という考え方をもってきました。
山には山神、水には水神、雷は雷神…。トイレにまで水神様が居ると…。
そういう考え方を持つ神道は、いっぽうで『他人が敬う神様があったら、敬意を払い頭を下げなさい』と教えます。
なので、日本では宗教戦争は起きませんでしたし、宗教戦争がなぜ起こるのか理解できません。
西洋の宗教は偶像崇拝を厳しく禁じているため、神は唯一無二の神。
例としては、山に神が宿っているという考え方が無いため、登山家達が険しい山の登頂に成功したとき『山を征服した』といいます。
しかし、この言葉は明治以前の日本には存在しませんでした。なぜなら日本人は山を神として遥拝し、日々の粮を得る場として大切にしてきたからです。
江戸時代後期、イギリス人宣教師達が富士山へやってきました。 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)として、日本中の人達が最も大切に遥拝してきた山へ登るためです。
麓の神社の関係者達は『富士山に登るなら日本人と同じようにミソギをし、歴史を学び、清らかな心で登って欲しい」と何度も懇願しましたが、「こんな山、ヨーロッパの山々に比べればハイキングみたいなものじゃないか…」と聞き入れてはもらえませんでした。
イギリス人宣教師達は大勢で歌を歌いながら、馬を気遣い馬で登る事を禁じていた登山道を馬で登り、登山道にある祠を倒しながら山頂へたどり着くと、山頂の万年雪でシャンパンを冷やし祝杯をあげました。
そして『我々は日本人の崇拝する山を征服した!』と叫び、山頂から噴火口へ向けて何発もの銃弾を打ち込みました。
そうすることによって日本人が他のアジアの国々と同様に簡単に改宗し、列強の前に膝を付くと思ったのでしょう。
その話は瞬く間に日本中に知れ渡り、布教活動を続ける事ができなくなり、その宣教師達は程なく本国へ帰って行きました。
そして、イギリスは国土の森林全てを貴族階級のウサギ狩りのために失う事になります。そのときも『全国土を我々が征服した』と喜んだそうです。それが現在のナショナルトラスト運動のきっかけとなったわけです。
戦後の日本がなぜこんなに発展できたか、その答えは世界中で話題になりますね。
なぜ短期間に経済大国として復興できたか?
それは『他人の敬う神様があったら、敬意を払い頭を下げなさい』という考え方が日本人の心の奥底にあるため、様々な文化や技術を柔軟に取り込むことが出来たからに他ならないのです。
それと、富士山を愚弄した宣教師達の行動から学んだアメリカ占領軍のマッカーサー元帥は象徴としての天皇陛下と皇族の方々を残しました。
そのマッカーサーの判断がなければ、日本人は進駐軍を心から受け入れることはなかったと言われています。
当然、今の繁栄も無かったでしょう。
クリスマスを祝った後すぐにお寺の除夜の鐘を聴きながら神社へ初詣に行き、最近ではハロウィンやイースターまで…。
それでも、我々日本人はちっとも変だと思わない。
最近になってそういった日本人の行動に疑問を投げかける人が増えてきましたが、一向にそういった考え方を国を挙げて改めようと言う機運は高まりません。
『万物に神が宿る』から…。
数年前に弟が亡くなった時、悲しみに暮れその上儀式的な事や習慣などを熟知していなかった私達家族を、親戚一同、特に長老と言われる人たちが、あれやこれやと指導してくれました。
「不慣れですいません。助かります」と言ったところ「お前が葬式に慣れてるわけないだろ?こういう事は年寄りが寄って集って作り上げるものなんだよ。まかせとけ…」と言ってくれた叔父の言葉が物凄く嬉しかったのを覚えています。
しかし、親戚や近所付き合いが希薄になった昨今では、必ずしも快く思われない事も多々あるようですね。
でも、これは日本の伝統なんです…。
世界中に様々な神様が存在します。
しかし私はその神々は結局は1つなんじゃないかって思います。
形を変えてそれぞれの国の民の上に存在する心の拠り所なんだってね。
平安時代から神主を勤める家でありながら、私を12年間キリスト教の学校に通わせた父と祖父は、そういう事を学ばせたかったんだって、最近やっと分かって来ました。
今思えば同級生に有名なお寺の息子も居ました。
おそらく私と同じ境遇でキリスト教を学んだんだと思います。
同じように他の国の宗教に携わる家の息子さん達が神道を学んでくれている事を切に望むわけです。
ローマ法王が伊勢神宮へ詣でてくれた時
『私は異教徒の集う場所に特別な感情を持った事はないが、ここ伊勢神宮だけは特別な雰囲気を感じる』とおっしゃいました。
その記事を読んだとき、とても嬉しくなるとともに、心から法王を尊敬する事ができました。
『島国根性』という言葉はあまり良い意味で使われませんが、良くも悪くも我々は世界的に見て特異な考え方の根付いた島国日本に暮らす民族なのです。
国際化が急速に進む日本で、様々な人種や宗教が共存共栄できますよう…。
<四十九日は七の倍数>
仏教において用いる数字は素数とまではいきませんが奇数が多いですね。三途の川は知っていましたがそこまで49日旅をするとは知りませんでした。そういえば最近のお笑いバカ芸人の一人が3の倍数で奇声を発する奴がいますね。奴も死後49日間三途の川に行き着くまで3日おきに奇声を発するのでしょうか。 合掌 やまねこ 拝